熊野の本地

  • 2006.05.28 Sunday
  • 17:12
 本地物語。むかし、摩伽陀国(まかだこく)の善哉王(ぜんざいおう)には七人の后と千人の女御がいた。その中に、五衰殿という女御がいたが、十七の時来て十九になるまで目にかけられず捨て置かれた。この女御は観音の信者で、十一面観音を作って、王に自分を思い出すように祈った。そのためか、六年十ヶ月目に王は千人の数をかぞえて、この女御の存在にきづき、通ってみて美人なので、今まで忘れていたことを後悔した。窮愛浅くなく、いつしか懐妊の身となったので、他の女御は陰陽師を召して占わせると、子供は善王で善政を布くと出たので、おどして王に讒奏させる。王は是非なく、鬼谷山の鬼持谷で首を刎ねさせた。死に臨んで生まれた王子は、母の乳房をすい、虎狼野干の守護によって育った。これを山の奥の花商山にいた喜見上人が知って、王子をつれてきて三年間養育した。
 王の重病に王子が祈祷にきて平癒し、布施に母の首を所望したことから、王子であることを知り、万里の飛車に乗って王・王子・上人の三人は日本の熊野に来て、三所権現となって現れた。この物語は『神道集』巻二に修められて唱導されていたことが分かる。お伽草子として多く流布したばかりでなく、説経節の「熊野の本地」あるいは「ごすいでん」としてかたられ、また幸若・古浄瑠璃の『高館』中にもとかれている。山伏・熊野比丘尼が宣布したのであろうと言われている。

ひだる地蔵さん

  • 2006.04.09 Sunday
  • 20:47
佐倉峠の登り口に「ひだる地蔵」が祀られている。
歩いているときや仕事をしているときに、突然空腹感を覚え、ふらふらになってしまうのは、ひだる神に取り憑かれたからだといわれた。山野を歩いているとき突然はなはだしい空腹をおぼえ、疲れて足腰が立たなくなる現象を、一種の妖怪のしわざと考え、ひだる神という。
これに遇うと、一粒の飯でも木の葉でも口にすればたちまち治るが、何もないときは葉に米の字を書き、これをなめるとよい。山野で弁当を食べるとき、必ず少し残しておいて、ひだる神に憑かれたときの用意をするという地方もある。

憑かれる場所は、峠の山道などが多く、行路病者が餓死したようなところもいう。
無縁の死霊や餓死者の亡霊、特に非業の死や疫病による死によって、十分浮かばれずにいる霊が悪霊と化し、通行人を悩ますものと信じられている。仏教的にいえば餓鬼にとりつかれたということであり、このひだる神のような憑きものの伝承は西日本多くみられ、ダリ神、ジキトリ、いざり神、ヒモジイサマなどと言ったりする。

険しい佐倉峠を越えて帰る里人の中には、寒さと空腹のために亡くなってしまう者もあったという。佐倉峠を越える人々がひだる神に取り憑かれないようにお祀りしたのがこの地蔵だと伝えられている。

ひだる地蔵尊由来
 吉野の山間地には、急な坂道を往き来する旅人の難渋を救う地蔵尊が数多く存在する。しかし、この「ひだる地蔵」という名称のものは珍しい。この峠を越える人々が「ひだる神」に取り憑かれないように祈願したのがこの地蔵さんである。「ひだる」という言葉は、この地の方言で空腹という意味である。徒歩以外に交通手段がなかった時代の人々の苦しみが、いかに想像を絶するものであったかがよく分かる。 いつの時代に建てられたものか定かではないが、旧街道の閉鎖にともない「家内安全・交通安全」の守り本尊として、この度この場所に移転安置したものである。
平成十四年九月二十三日 東吉野村観光協会

畑仕事をしていた年配の女性に尋ねてみたら「下の道路のひだる地蔵さんを新しい道の方へ移転して、お祀りしているのよ。交通安全のお地蔵さんよ」と教えてくださった。

厳島の本地

  • 2006.04.08 Saturday
  • 10:44
 お伽草子。天竺とうしょう国のせんさい王は、父大王より賜った伝承の宝の扇に画いてある毘沙門天の妹吉祥天を見て恋の病に臥す。西方さいしょう国の第三王女足引宮は、その画のような美人であると教える者があった。しかし、その国へは往復十二年もかかるが、家宝である五からすという鳥が、王のために使して往復百七十日ばかりで返事を貰ってきた。王はますます恋の病が重くなったが、氏神の夢想の告によって弘誓の船、慈悲の車を造り、五からす、公卿臣下を乗せてさいしょう国に行き、足引宮を欺いて本国につれてきた。ところが、后達が嫉んで、みち腹の病にかかった様をして、仲間の相人に合わせて、ぎまん国のちょうざんという山の薬草を王がとってくれば治ると言上させて、王を往復十二年もかかるぎまん国へゆかせた。その留守中后たちは武士たちに、足引宮を、からびく山こんとろヶ峰じゃくまくの岩へつれてゆき殺させた。
 足引宮は妊娠七ヶ月であったが、そのとき王子を生んで梵天帝釈天に加護を祈った。その子は帝釈をはじめ、虎狼野干の守護によって山中に生長した。十二になったとき王が帰国してこの事情を知り、山に尋ね来て王子を助ける。宮の遺骨を携えて、かびら国すいしょう室(むろ)のふろう上人に頼んで再生させることができた。
 ところが、王は足引宮の妹に心がうつったので、足引宮は日本へ来て伊予の石槌の峯さらに、安芸国佐伯郡かわいむらに落ち着き、佐伯のくらあとの奉仕によって、くろます島に仮殿をつくって住んだ。
 足引宮はいつくしき島なりとこの島をめでたので厳島の名が起こった。この足引宮を大ごんぜんといい、本地は大日如来、あとから尋ねたせんさい王はまろうどの御前とよび、本地は毘沙門、王子はたきの御前、本地は千手観音、ふろう上人はひじりの御前、本地は不動明王である。貞和二年(1346)の断簡絵巻物が現在のところ最古の記録であるが、『源平盛衰記』巻十三に大同小異の記事が出ている。

関連サイト:厳島縁起 ひろしま電子郷土資料館図書室

高野山のお土産

  • 2006.03.21 Tuesday
  • 15:12
高野山のお土産といえば「胡麻豆腐」に「高野槙」が有名ですが、「かるかや餅」も、いいですよ。あんこが入ったきなこ餅です。箱の中に『苅萱と石童丸(一代記)』のお話が入っています。
どんなお話かと云いますと〜
【苅萱・かるかや】
説経節の曲名。筑前苅萱の庄、松浦の党の「総領加藤左衛門繁氏」は二十一歳で、筑前・肥前・肥後・大隅・薩摩六ヶ国の領主でした。妻は十九歳、三歳になる千代鶴姫とお腹に七ヶ月半になる児を身籠もっておりました。あるとき繁氏は、妻と妾(父の旧友朽木尚光の遺児:千里を引きとって一緒に暮らしていた)と共に花見の宴を開きました。表面は仲睦まじい二人の女性でしたが、嫉妬の心のありさまを見て繁氏は、わが身の罪の深さに驚き、無常を感じて郷里を出たのでした。
その後、勧進聖に教えられて新黒谷の法然上人を訪ねました。剃髪して「苅萱道心」と名のったそうです。それから十三年、生まれた子供「石童丸」があまりに父を慕うので、母は石道丸を連れて上洛し、新黒谷に石堂丸の父を訪ねたのですが、高野に移ったことを知って、さらに跡を追うのでした。
しかし、高野山は当時女人禁制のために、母は麓の学文路(かむろ・和歌山県橋本市)にとどまります。石道丸は一人で高野山へと登って行きました。七日間探しても父に出会うことなく、むなしく思っているところへ、無明橋の上でたまたま親切な道心に出会います。道心は石道丸が、我が子だと知りつつも「たずねる人は、去年秋に亡くなった」と話して、下山するようにいいました。宿に戻ると、母は歎きのあまりに息を引き取ってしまいます。石道丸はまた高野山へと向かい、親切な道心(実は父)に助けを求めて、母を火葬にして郷里へ戻ります。
 帰ってみると、姉が亡くなって七日の供養をしているところでした。姉の遺骨を持って高野に上り、かの道心に会い、蓮台野で出家して「道念坊」と称したのでした。「苅萱」は下山して信州善光寺にこもり、八十三歳で往生しました。「道念坊」も同じ日に、六十三歳で亡くなりました。
〜善光寺の親子地蔵の由来〜だそうです。

小栗判官 蘇生の地 〜湯の峯〜

  • 2006.01.08 Sunday
  • 06:58
 三条大臣兼家の嫡子、小栗判官は鞍馬に参籠し、横笛を吹くと、みぞろヶ池の大蛇が美女となってあらわれ、契りを結ぶ。
 竜女懐妊のため、神泉苑の池の八大竜王と悶着が起こり七日間大嵐となり、博士の占いに、竜女と契ったもののいることがわかり、小栗は常陸へ流人となる。相模国の郡代横山大膳に、日光山の申し子で、照手姫という美しい姫のあることを、諸国行商の商人から聞き、それに文の使を頼むと、商人は巧みに計って、文をとりつぎ、返事を貰い、ついに小栗は横山の館にゆき、乾の御殿に忍び込んで姫と契りをこめる。
 横山に五人の男子があって、その三郎は小栗を犬鹿毛(人喰い馬)の餌にしようという計略を父にすすめ小栗は横山の酒宴に招かれ鬼鹿毛に乗ることになる。小栗はこの人食い馬に宣命をとなえると、たちまちおとなしくなって、三郎の計略は失敗する。しかし毒酒の計略で主従殺される。小栗一人はうわのヶ原に土葬となり、十人の家来は火葬にされる。照手姫は鬼王兄弟の手により相模ヶ淵に沈めよと父に命ぜられるが、さすがに沈めかね牢興のまま海に流される。
 姫は漂着して越後の国なをいの浦につき、村君の妻に虐待され、ついに売られて美濃国青墓の宿万やの長に買いとられ、常陸の小萩と呼ばれて、水汲み女としてはげしい労働をさせられる。死んだ小栗は主従とも蘇生を許されるが、小栗一人だけは土葬でなきがらがあるので、熊野本宮の湯に浸せと藤沢上人宛の書面を小栗に渡されて、うわのヶ原の塚をうち割って生き返る。通りかかった藤沢上人は、閻魔の書面を見て小栗に餓鬼阿弥と名づけ、車にのせ、この車を引く者は供養なるべしと胸の木札に書きつけ、これから人々の慈悲によって、熊野まで運ばれる。
 途中、小栗と知らずに、小萩の照手姫にも引かれ、熊野へゆき二十一日間湯の峯につかって、もとの小栗にもどる。照手姫と再会し、横山の三郎に詰め腹を切らせて大団円となる。
 義太夫節の『小栗判官車街道』、歌舞伎にも『小栗鹿目石』『小栗十二段』『小栗外伝』などがある。求婚、試練、死および瞑府下り、蘇生の物語。餓鬼阿弥の小栗を車で引く話は、がきやみすなわち業病の乞食がそうした土車に乗って霊地巡拝をした民俗を表しているのであろうといわれる。

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>

 

千鳥アイコン戻る 

Booklog

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM