厳島の本地

  • 2006.04.08 Saturday
  • 10:44
 お伽草子。天竺とうしょう国のせんさい王は、父大王より賜った伝承の宝の扇に画いてある毘沙門天の妹吉祥天を見て恋の病に臥す。西方さいしょう国の第三王女足引宮は、その画のような美人であると教える者があった。しかし、その国へは往復十二年もかかるが、家宝である五からすという鳥が、王のために使して往復百七十日ばかりで返事を貰ってきた。王はますます恋の病が重くなったが、氏神の夢想の告によって弘誓の船、慈悲の車を造り、五からす、公卿臣下を乗せてさいしょう国に行き、足引宮を欺いて本国につれてきた。ところが、后達が嫉んで、みち腹の病にかかった様をして、仲間の相人に合わせて、ぎまん国のちょうざんという山の薬草を王がとってくれば治ると言上させて、王を往復十二年もかかるぎまん国へゆかせた。その留守中后たちは武士たちに、足引宮を、からびく山こんとろヶ峰じゃくまくの岩へつれてゆき殺させた。
 足引宮は妊娠七ヶ月であったが、そのとき王子を生んで梵天帝釈天に加護を祈った。その子は帝釈をはじめ、虎狼野干の守護によって山中に生長した。十二になったとき王が帰国してこの事情を知り、山に尋ね来て王子を助ける。宮の遺骨を携えて、かびら国すいしょう室(むろ)のふろう上人に頼んで再生させることができた。
 ところが、王は足引宮の妹に心がうつったので、足引宮は日本へ来て伊予の石槌の峯さらに、安芸国佐伯郡かわいむらに落ち着き、佐伯のくらあとの奉仕によって、くろます島に仮殿をつくって住んだ。
 足引宮はいつくしき島なりとこの島をめでたので厳島の名が起こった。この足引宮を大ごんぜんといい、本地は大日如来、あとから尋ねたせんさい王はまろうどの御前とよび、本地は毘沙門、王子はたきの御前、本地は千手観音、ふろう上人はひじりの御前、本地は不動明王である。貞和二年(1346)の断簡絵巻物が現在のところ最古の記録であるが、『源平盛衰記』巻十三に大同小異の記事が出ている。

関連サイト:厳島縁起 ひろしま電子郷土資料館図書室

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