鐘に恨みは…

  • 2009.02.02 Monday
  • 22:40
 先日、紀道神社に参拝して参りました。
昨今、忙しくなかなかHPの更新が進みませず、自身でも地団駄を踏んでいるんですが、川辺町史を調べておりますと、安珍さんと清姫さんの前世に遡る因縁話に出会いました。


〜道成寺の釣鐘〜
 釣鐘は多勢の衆の念力によって造ったものが真の鐘と申すもの。
かの道成寺の鐘の製錬には檀家総代が世話人となり、羽織・袴を着用して戸毎に寄付に廻り合力を勧めた。農家では斧・鉈(なた)・鍬(くわ)・鋤(すき)の古金類。商家では銭、大家では金銀。
婦人はかんざし等、あらゆる金属類を寄進し、合せて何百貫という大したものになった。
 ある日、世話人は小屋住まいの老夫婦を尋ねた。細々と煙を立てているのを承知しているので気の毒に思ったが、万人の念力が主眼の故を思い、病床の老爺にこのことを話した。
 老爺は大いに喜び、古鉈を一丁寄進した。
 留守をしていた老婆が帰ってきた。「じいさん変わりないか」と言うから「変わりないよ。ばあさん、たった今、寺の総代さんが来て、道成寺に釣鐘を造るから何か寄進してほしいと言うから、鉈を寄進したよ」と言う。老婆は驚いて、「あの鉈はわしらの二人の命の綱、それを持って行かれて何としょう」と泣き出した。「わしら二人にとって、鉈は大切な事は解っている。けれどもお寺の大鐘造りの仲間に入っておくことは後世のため。諦めてくれ」と言って慰めた。けれども老婆は「わかっている。けれどもあの鉈が無くてはこの世で二人で食べて行くことはできないぞよ」と泣く。それも道理。毎日二、三合の米を食わしてくれる鉈である。この鉈なくては二人は餓死するほかはない。
 老爺は今は理くつに困り、老婆が泣き伏している間にそっと寝床を抜け出した。はうようにして一町(約百メートル)ほど行った所にある池の側に立った。そして念仏をくり返し唱えたかと思うと、その池に身を投げた。
 老婆が涙を拭うて見ると、爺さんの姿がない。「爺さあん、爺さあん」と叫びながら広くもない小屋の中を探したが、どこにも見あたらない。もしやと思って、その池まで走ってきた。見ると古草履が一足、池に向かってきちんと揃えてある。狂わんばかりに嘆き悲しんだ老婆は、夫の後を追うて池に身を投げたのであった。
 この夫婦は後世に生まれかわるのである。男は奥羽白河に生まれ、女は中辺路、真砂庄に生まれた。言うまでもなく、後の安珍と清姫である。二人は共に鐘に恨みがあった。
 清姫の恨みの炎で釣鐘が灰になった時、悲しくもその中に古鉈が一丁あったという。
(那須清次『伝説の熊野』)

大汝詣

  • 2007.10.06 Saturday
  • 17:37
 奈良県橿原市膳夫町に鎮座する「三柱神社」は、当屋制が残っており、毎年10月1日の真夜中に当屋(頭屋)の仮宮に神様をお迎えする「神迎祭」を行い、27日が宵宮で28日に神送りの祭りが行われる。昔は座の講衆が神迎祭の前に吉野川で水垢離を行い、帰途小石を拾って帰り、仮宮の傍に置く習わしが残っていたとのことである。吉野川のどの辺かというと、大名持神社の社前辺りとのことであるが、この辺り川の流れが激しく、深さも結構ありそうだ。少し行くと川遊びに丁度よいスポットがあるのだが、社前辺りでの水垢離とは想像しただけでもキツいと思う。その際に吉野川で拾った石を藁に包んで持ち帰り、付近の川で禊をしたとのことだ。
 数年前、地元のテレビ局が放送していた「大和の民俗」(多分)という番組で、これを見たことがあった。かなり古い時代のもの(昭和40年代頃か)であった。中壮年の男性達が褌姿で水垢離をしている場面、藁に包んだ石を持ち帰る場面、三柱神社の鳥居の足もとを映している場面があったように記憶している。
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「枡かけ祝い」絵馬ギャラリー

  • 2007.05.24 Thursday
  • 21:54
 三重県久居市に鎮座する敏太神社の拝殿には、枡と斗掻棒(とかきぼう・枡に穀類を盛った時に枡の縁なみに平らに均す短い棒のこと)が描かれた絵馬が多数奉納されている。「枡かけ祝い」(別名 斗掻祝い)と呼ばれ、米寿(八十八歳)の祝いに奉納される。


           
 敏太神社の拝殿にかかる絵馬。板に描いたものや紙に描いて額に入れたもの、墨だけで描いたものや、色づけしたものなど多種多様。
 年齢(全て八十八才)と日付・名前が書き入れられている。


          
 枡には斜めもしくは、横一文字に線が引いてある。米の字を分解すると、八十八になるが、米に対する日本人の概念とともに、末広がりの字が二重ということで、八十八の字そのものが吉事の印象を与えたと考えられる。
 敏太神社では、最後の厄払い(男女とも)とされ、毎年3月の最初の午の日に従来の厄除けと共に、稲荷社で神事が斎行される。

粟原寺跡

  • 2007.03.22 Thursday
  • 16:13
 粟原寺跡(国指定史跡)
粟原集落南端の天満神社境内及び、隣接地に、塔跡・金堂跡が残り、標高二六〇m前後に位置する。この粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢は、談山神社蔵(国宝)として残っている。その銘文によると、中臣大島が草壁皇子のために発願し、比売朝臣額田が持統天皇八年(694)から造営を始め、和銅八年(715)に完成したことがわかる。
桜井市教育委員会

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古尓戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾念流碁騰
古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我が恋ふるごと

 当地には、「有名な万葉の女流・額田王の終焉の地だ」と言う伝承が遺されています。さすれば、国宝・粟原寺三重塔露盤の銘文にある比賣朝臣額田が、その人であるかも知れません。この事は、史的考証はなくて詩的確信です。
 数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩後の複雑な立場の拠り所を この地に求めたものと想われます。
 天智帝の子、弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡って行ったほととぎすの声に託して、ひそかな懐旧追慕の情を額田に訴え、これを受けた額田は、わが心とからだのうちそとを通り過ぎて行った人々の回想追慕の悲しみを詠いました。
 この贈答歌は、お二人の真情が惻々と伝わりますし、その舞台は、ただ空しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が、最もふさわしいと感じます。
 この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人、金本朝一氏の御遺志に依って、この碑は建立されました。
 昭和六十三年十月二十一日
粟原区

なんとも詩的な表現の看板。
「わが心とからだのうちそと」とな。_¢(0-0ヘ)メモメモ


曽爾村の獅子舞

  • 2006.10.10 Tuesday
  • 11:31
接ぎ獅子

毎年、体育祭の前日に行われる、奈良県宇陀郡曽爾村「門僕神社」(かどふさ)の秋の例祭に行ってきました。例祭には、獅子舞が奉納されます。曽爾村の獅子舞は有名で三大字(長野・今井・伊賀見)で第二次世界大戦中も絶えることなく、現在まで継承されているそうです。
【写真:伊賀見の接ぎ獅子】

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